こんにちは、大石です。
コロナの影響で、自分に取っての幸せとは、何か?
と考えるきっかけになった方も多いと思います。
私は、昔から幸せというものについて、
日々いろいろ考えてきました。
今日は、幸せをテーマにお話します。
最近、カフェで、とある親子を見ました。
両親が子供に対して、モノに指を差して、
「これはなんだと思う?」
といってそれに対して、子供が答えるという光景でした。
それを見て、いろいろ気づきがあったので、
書いています。
たとえば、木のイスを見たときに、
100人が100人ともこれは木のイスであると指を指します。
絵本を見たときに、
100人が100人とも、これは絵本だと指を指します。
ガラスのコップを見たときに、
100人が100人ともこれはガラスのコップだと指を差します。
石を見たときに、
100人が100人ともこれは石だと指を差します。
モノには名前があり、
その性質を持っているものがその名前です。
ところが、100人が100人とも指を指して、
これが幸せだといえるものが果たしてあるでしょうか。
100人が100人とも、
指を指して、これが幸せだといえるものは、
実は今地球上に存在しないのではないのではないでしょうか。
たとえば、Aさんが、これを幸せだと言っても、
Bさんあるいは、Cさんは幸せじゃないと言うかもしれません。
全ての人が納得をして、
「これがその名称を持つものである」と、いえるモノとして、
確かにモノが存在はします。
しかし、幸せという名の宇宙的な現象、
絶対的な名称、絶対的な価値を持つ幸せというものは、
この世に存在しないのではないかと思うようになりました。
たとえば、私が、
「今、目の前に誰か、私に幸せという名の現象なり、
事象、モノを持ってきてください。」
と言ったとします。
それに対して、
「はい、これがそうですよ!」
と言って、私の目の前にそれを持ってこられる人は、
世の中に誰もいないのではないかと思います。
もしその人がそう思って、持ってきたとしても、
私の方が拒否をするかもしれないですからね。
「それは私の幸せではないです」といえば、
それは100人が100人とも指を指して幸せである、
といえるものではなくなってしまうわけです。
では、いま地球上にその現象が存在しないとするならば、
今までの歴史の中で幸せという名の現象が存在したことがあるのかどうか?
ということですが、答えは簡単です。
幸せという名の現象は、
過去にも存在したことはないのです。
幸せという名の絶対的な現象、絶対的な名称、
絶対的な価値を持つ幸せというものは、
いまだかつて地球上に歴史の中に存在したことは、
一度もないということが言えます。
同時に今この瞬間に、地球上に絶対的な価値を持つ幸せ、
というものも存在しないということがいえます。
100人が100人とも、1000人が1000人とも、
すべての人が指を指して、これが幸せだねと言えるものは、
地球上に今存在していないのです。
今も存在せず、過去にも存在したことがないとするならば、
実は幸せという名の現象は、地球上に、広くいえば、
宇宙の中に存在していないと言って良いのかもしれません。
では、存在していないにも関わらずその名称、
幸せという名の言葉が存在しているのは、なぜだと思いますか?
少しご自身で考えてみてください。
考えたら読み進めてください。
それは幸せという現象が存在するからです。
「え、ゆうやさん、ちょっと待ってください。
幸せという名の現象は、存在しないと言ったばかりですよ!」
という声があるかもしれません。
もう一度言いますね。
幸せという名の絶対的な現象、
絶対的な価値を持つ現象というのは、
地球上に未だかつて存在したことはないです。
しかし、幸せという名の現象が、
実は存在するときがあります。
では、それはどういうときかというと、
私が幸せだと思った瞬間に、
その思わせた事が幸せなことになります。
宇宙的にすべての人が絶対的な価値を持って、
幸せだと思えるものは地球上に存在はしていないです。
けれど、個人がこれを幸せだと思ったとき、
そういうふうに決めたときに、
それがその人にとっての幸せになります。
つまり、幸せという現象は、
個人の心の中に存在するものであって、
他の人が口を挟み、意見を言うべきものではないということです。
幸せはつかむものでもなく、
幸せになるものでもないです。
幸せとは、ただひとえに感じるものです。
幸せは、感じた人にのみそこに存在します。
感じた人にのみ、
幸せが生まれるという構造になっています。
幸せという名の現象や事象が、
地球上、宇宙上に存在しないということがわかったときに、
私たちは幸せに向かって歩いていくということができない、
ということに気がつきます。
もともと地球上に存在しないものなので、
幸せに向かって、歩いていくことはできないのです。
幸せというものは、
地球上に宇宙上に存在していない現象として、
絶対的な名称として絶対的な価値を持つものとして、
存在はしていないです。
ただ Aさんが幸せを感じたときに幸せだと思う、
あるいは、Bさんが幸せを感じたときに幸せだと思う、
その思ったときに間違いなく、
その人にとって幸せは存在します。
その人にとってのみ幸せが存在するものであり、
すべての人に共通して絶対的な価値を持つものとして、
存在する幸せというものはないのだということが、
この宇宙構造の最も基本的で重要な部分です。
幸せは求めにいくものではないし、
手に入れるものでもないです。
そして、幸せになるというそういう状況も、
実は宇宙に地球上に存在しているわけではない、
ということを認識したいのです。
もしここのところがわかれば、
人生はものすごくラクになります。
幸せという状態が絶対的なものとして、
存在するのではなく、
幸せという名の現象を手にする、
つかみ取るということもないのです。
私がひとえに幸せを感じるかどうかで、
幸せが存在するかしないかが決まります。
そうなると、
「では、私が幸せだと思えばどんな状態でもいいのですか?」
という質問が聞こえてきそうです。
私の回答は、全くその通りです。
私という人間が、
私個人が「あっこれ幸せ」と思った瞬間に、
その人は幸せになり、幸せを感じるのです。
そこに幸せが、
その人にのみ存在します。
たとえば、暑い夏の中、ランニングをして、
たくさんの汗をかいたとします。
それを終えて、
冷たい水を一口グイッと飲んだとします。
その飲んだ一口で、
「あ〜幸せ」と思った瞬間に、
その人にとって、その幸せが存在します。
その人は、そのとき、
幸せになったのです。
幸せを感じたから、
幸せになったというわけです。
それを周りの人が、それまで居酒屋でビールを飲み、
水を飲み、枝豆を食べて、十分に潤っていれば、
その人が一口水を飲んで、「あ〜幸せ」と叫んだところで、
その幸せをみんながわかるわけではないです。
ビールを飲んですでに潤っている人には、
その一口の水は、別に幸せでもなんでもないのです。
幸せは、それまで汗を流して、
水を飲めなかった人にのみ初めて存在します。
その一口がその人にとっては、
幸せだったのです。
幸せというものは、個人にただ一人、
それを感じる人にのみ、存在します。
幸せというものをずっと追求していくと、
そういう結論になりました。
それでは、今日はこの辺りで。
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